だが、しかしである。 テレビによると自分と子供だけがキャンプを後にすることになっ
た時に後ろめたさを感じた(あるいは、その仕掛けをした記者が後ろめたさを感じた)と
ありましたが、そこで感じた後ろめたさこそ、物事を感じることのできる人間として重要
な感覚ではないでしょうか? 是非、その感じたことを大切にしようではありませんか。
何故、救出の対象が彼女(と彼女の子供)だけなのでしょうか?
何故、他の人ではないのでしょうか?
それは彼女が日本人だからでしょうか?
日本人と言っても彼女は外国人と結婚し、ボスニア・ヘルツェゴビナの地に根をおろし、
戦争さえなかったら、日本に帰らず、かの地の人として生活していたのではないのでしょ
うか? キャンプは勿論安全ではないが、今まで彼女が過ごしてきた状況に比べれば比較
的に安全な状況になってきていたのではないのでしょうか?
戦争は悲惨です。
夫を亡くし、自らも銃弾によって怪我をし、子供達が無事であった方が奇跡であったとい
えましょう。 そんな彼女が安全を求めるのは当然であるし、両親の居る日本が救出の手
を差し伸べるのも当然でしょう。 日本の外務省も子供の旅券を含め思ったよりも迅速に
対応したようです。
それでも、それは後ろめたさを残したのです。 キャンプにいた他の人達も皆、住む所を
なくし、肉親を失い、危険をくぐり抜け、着の身着のままの惨めな思いをしているのです。
何故、その人達には救援の手を差し伸べないのでしょうか?
簡単に言えば、日本人は「日本人が問題で、他の人まで面倒は見きれない」という感じな
のではないでしょうか。 でも、人間としては同じなのではありませんか?
もしも、彼女を救出しなければならない緊急性があるとするなら、キャンプの他の人達も
同じ様に救出しなければならない緊急性のある状況だといえます。
日本人であるから救出するのですか?
子供は日本人だったのですか? (少なくとも当時はそうゆう認識ではありません)
それでは日本人と日本に関係する人だけを救うのですか?
それなら、リビチさんのボスニアの親戚の人達はどうして救出してあげないのですか?
今まで、リビチさん(日本人)を助けてくれた人達なのですよ。 自分達も大変な状況の
中で分け隔てせず、むしろ、色々と普通の人以上に面倒を見てくれたのです。
その様な人々を見捨てるなんて公平ではないではありませんか。
世界的には日本はボスニア・ヘルツェゴビナでも何らかの貢献を求められているのです。
「そんな国、知らないよ」「だから援助なんかできないよ」ではすまないのです。
どうせ、つけが回ってくるなら、後ろめたい思いをしないですむようにはできなかったで
しょうか。
例えば、日本政府が50人の難民を受け入れることを表明し、その条件として、日本への
移住を希望する者で、日本側で受け入れ先のある者、日本語を話せる者を優先的に受け入
れるとして、リビチさんを第一号にすればよいのです。 これらの条件は別に不自然なこ
とではありません。 そして後ろめたい思いをせずにどうどうとリビチさんを迎え入れら
れたのではありませんか?
国連難民高等弁務官事務所が、例えば、リビチさんの救出に50人の難民の受け入れを条
件として日本政府に示したら日本政府はどの様に対応したでしょうか?
救出を諦めたのでしょうか?
日本人は「よかった、よかった」という感情だけで、後ろめたさという形で感じてはいる
のに不公平を行ったとは認識していないのではないかと思うのです。
冒頭のように後ろめたく感じたのは、この不公平を行ったからなのです。
公平、不公平に対する厳しい見方こそ、日本人に欠落しがちな重要な問題なのです。
そして、国際的には日本の貢献が求められているのならば、あのようなキャンプに対し
ても医療や物資などの救援を行うとともに、有る程度の数の難民も引き受けるといった、
人道上の貢献もすべきだと指摘したいのです。
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