中国における蘭を語る場合には、まずは孔子(Confucius, (551-479 B.C.))から始めることになります。 孔子がその十翼を作ったとされる「易経」には
孔子の言行録である「論語」に洩れた孔子の語を集めた「家語」に
という言葉が見えます。自らの理想の政治的実現を求めて諸侯をめぐったもののどこでも任用されず、意気消沈して魯の国へ引き返す途中の孔子が、深い谷のほとりで「香蘭」を見て、
と慨嘆したといいます。何れの場合も、蘭の高貴な芳しい香りが強調されていることが判ります。中国の蘭と高貴な香りを切り離しては語れません。
屈原(343 - 277 B.C.) は高踏な生き方を貫いた人物として有名ですが、その自伝的叙事詩「離騒」は「美人香草の辞」とも呼ばれ、君主を美人になぞらえ、君子とその美徳、小人とその悪徳にそれぞれ香草(蘭)と雑草をあてた暗示的な表現に満ち満ちたものです。
蘭は一茎一花の草蘭、すなわち春蘭 Cymbidium goeringii (今は多花性の春蘭で一茎九花などといったものもあるようです)、恵(けい、恵の文字には草冠がついています)は一茎多花を意味し、紫蘭 Bletilla striata であると考えられています。すでにこの時代には蘭が栽培されていたことが判ります。
中国は「中華」とも言い、中国人は「華人」と自称しています。草木の「華」は文化が開け栄える状態をイメージさせ、中国そのものを象徴する言葉になっていったのです。草木の「華」は南北朝時代(5 - 6 世紀)頃に「花」という文字に変わったようです。その花好きな中国で蘭は最も好まれてきた花の一つなのです。
中でも四君子(その高潔な美しさを君子に喩えていう)は中国・日本の絵画で多く描かれてきました。
(参考文献 :"中国の文芸と蘭" 木山英雄 - 東洋蘭編集委員会「東洋蘭」、他)
ランは英語で Orchid と書きます。
この Orchid はギリシャ語のランを意味する Orchis がなまったものであると言われています。
オルキス (Orchis) は2000年以上前に名付けられたもので、プラトー (Plato) とアリストテレス (Aristotle) の弟子であり、後に「植物学の父」として知られるギリシャの哲学者テオフラストス(Theophrastus, (d. 287 B.C.))によって書かれた論文 "Enquiry into Plants" に載っています。ランを意味する Orchid はギリシャ語の「睾丸」という意味の Orchis からきたもので、地中海諸島のある種の地生ランが新旧二個の睾丸状の根茎を持つているところから名付けられたと言われます。(加えて、ランの根を傷つけると独特の匂いがして、これが精液の匂いに似ているからともいわれています。)日本での「ハクサンチドリ」(Orchis aristata) や「ウチョウラン」(Orchis graminifolia) などが同じ族にあたります。(新旧二個の睾丸状の根茎とは塊根(子球)と塊根(母球)をさすものと思われます。)
Orchis はラン (Orchid) という言葉のルーツとしてだけではなく、実際にラン科ハクサンチドリ族にオルキス(Orchis)属としても名を残しています。また、英国では自国の野生のランには orchis を用い、外国産の栽培種のランには orchid を用いることが一部に行われているようです。
Orchis に関連して性欲亢進剤としての効用が、ガイウス・プリニウス・セクンドス (Gaius Plinius Secundus, 23-79 A.D.) が残した「博物誌」、(プリニウスの博物誌 "Plinii Naturalis Historia" )にのべられています。面白いので、一部を少し引用してみます。
プリニウスの博物誌 "Plinii Naturalis Historia" にはこの他にもランに関する記述があるので関心のある方はお読み下さい。
(参考文献 :"A History of the Orchid" by Merle A Reinikka, University of Miami Press、他)
日本列島ができた時以来、日本にランは存在していたと思われますが、文書に記載された記録にはあまり古いものはありません。古事記(712年)にも日本書紀(720年)にも載っていないとされています。ただし、日本書紀には「蘭」の文字が登場します。
(巻第十三 雄朝津間稚子宿禰天皇 允恭天皇)
「蘭」が春蘭のようなラン科の植物なら「まぐなき」(ヌカガの類の虫)を追っ払うのは柔らかすぎて困難なので、これは「フジバカマ
Eupatorium japonicum あるいは Eupatorium fortunei」(キク科の植物)
を指すという説が定説とされています。
「蘭」という文字は使われていませんが、出雲国風土記(733年)にはラン科の植物が載っています。
(少なくとも中国から、遣隋使(600-615)、遣唐使(630-894)の派遣などを通じて漢字の「蘭」という文字が既に伝わってきていたということを意味します。)
凡、諸山野所在草木、卑解・升麻・当帰・独活・大薊・黄精・前胡・署預・白朮・女委・細辛・白頭公・
白及(及の文字には草冠がついています)・赤箭・桔梗・葛根・秦皮・杜仲・石斛・藤・李・椙・赤桐・椎・楠・楊梅・槻・柘・楡・松・榧・檗・楮。・・・・・
(飯石郡 山野・河川)
万葉集(759年)には多くの植物が登場します。ここにも「蘭」の文字があらわれ、
(巻五-815 の序) (巻十七-3967の序) 季節(前出の「フジバカマ = Eupatorium
japonicum あるいは Eupatorium fortunei」は正月には咲かない)や内容的にみて今日の「蘭」を指しているのではないかとの説がありますが、具体的な種が判っている訳ではありません。(蘭恵の蘭は春蘭、恵は紫蘭であると考えられています。) (巻八-1537, 1538)
とあり、「藤袴=フジバカマ」が別に登場しますので、万葉集では「蘭」は「フジバカマ」とは別であるとの考えを生じさせています。
「蘭」の読み方、発音は中国が lan
であるのに対して日本が ran
と少し違うようです。また、むかしは
rani と訓んだようです。
実際にランが栽培されていた記録としては、ずうと時代をさがって、室町時代に書かれた相国寺鹿苑院内蔭涼軒主の公用日記である蔭涼軒日録の寛正4年(1463年)のところに
とあります。(ここでの蘭はスルガラン Cymbidium ensifolium
であると考えられています。これは後に刊行された草花絵前集(1695年)の蘭の絵などから推測されます。既にその頃にはスルガランやセッコクが栽培されていた証拠であるといえましょう。)
江戸時代になるとランは盛んに栽培されていたようで、日本で最初の園芸書といわれる花壇綱目(1681)には南京えびね(Calanthe
sieboldii)、えびね(Calanthe discolor)、春蘭(Cymbidium
goeringii)、黄蘭、大蘭、紫蘭(Bletilla
striata)、鷺宿(Habenaria radiata)、つれ鷺(Platanthera
japonica)、布袋草(Cypripedium
japonicum)、敦盛草(Cypripedium macranthum var.
speciosum)、妙蘭、澤蘭(Eleorchis
japonica)など多くのランの栽培方法などが記載されています。 (注、()カッコ内の学名は推測です。)
しかしながら、「蘭」という漢字が植物のランより先に日本に入ってきて、前述のようにフジバカマに使用されたりして、厳密にラン科の植物に使われたとは言えないことは確かなことです。
ラン科の植物であって日本語(漢字)の名前があるもので、ランの名が付かないものには次のようなものがあります。(主なものをあげましたが、まだまだあります。)
また、逆に本当はラン科の植物ではないのにランの名前のついたものには次のようなものがあります。
少し違ったところでは、草ではなく木でラン科の植物ではないのに漢字の蘭の名前のついたものに、マグノリア属 Magnolia、一般に言われるモクレンがあります。
(参考文献 :"野生ラン栽培の歴史 古代ー中世" 大橋秀昭 -
東京山草会ラン・ユリ部会編著「ふやして楽しむ野生ラン」、他)
これは英国の園芸家ウイリアム・カトレイ氏
(Mr. William Cattley,
1788-1835)に由来します。人の名前を属名に使用する場合にはラテン語化しなければなりません。実際にはその人が男性であるか女性であるかに関わらず、末尾に
"a" を付けて女性形にすることが決まっています。この結果、Cattley は
Cattleya となった訳です。
1818年にブラジルのリオデジャネイロの近くのオルガン山 (Organ
Mountains) で英国の博物学者スウェインスン
(Mr. William Swainson 1789-1855)
によって幾つかの植物が採集されました。これらの植物は開花状態ではなかったので、スウェインスンはそれらが植物的に価値があるものとは考えませんでした。そこで、彼は英国へ送る他の熱帯植物の梱包材としてそれらを使ったのです。送られたこれらの植物のうちの少なくとも幾つかの受け取り人はバーネット(Barnet,
ロンドン北部の自治区)に住む熱帯植物の輸入者で栽培家のウイリアム・カトレイ氏でした。園芸の理解者で最初のランの趣味収集家の一人であるカトレイ氏は梱包に使われているおかしな格好の植物に興味を持ち、工夫をしてそれらの植物を育ててみたのです。その結果、その年の11月にそのうちの一つが花開いたのです。カトレイ氏は、花が今までに見たどんなものとも全く違っていて、大きくて、トランペットのような唇弁を持ち、これまでに栽培した最も魅惑的なランであったので大喜びしました。この名のない花を見た分類学者のジョン・リンドレイ氏
(Mr. John Lindley, 1799-1865)
はカトレイ氏の名誉を記念して新たにカトレヤ(Cattleya)属を設け、特に印象的な大きな唇弁にちなみ、原種名を(唇、くちびるの意味のラテン語の
labium からとって) labiata と命名しました。
その後、ラン栽培熱は過熱して、一大ブームを迎えます。そして、膨大な数のランが南米からヨーロッパに送られました。今では原産地のリオデジャネイロ周辺では自生の
Cattleya labiata はもう見つけることができないといわれています。
真に残念なことです。
(参考文献 :"A History of the Orchid" by Merle A Reinikka,
University of Miami Press、他)
ランの中で主たる五つの属を挙げれば、カトレヤ
Cattleya、シンビジューム Cymbidium、デンドロビューム
Dendrobium、パフィオペディラム
Paphiopedilum、ファレノプシス Phalaenopsis
ですが、カトレヤ以外の四つの属の名前の意味を簡単に述べておきます。
Cattleya(カトレヤ)以外のカトレヤ
類の主な原種属名の簡単な意味を述べておきます。
ここでは「蘭」は「梅」との対比の形をとったり、よい香りがする草とされていて、中国の「蘭」の影響を強く感じさせます。(日本に自生の春蘭、ニホンシュンラン
Cymbidium goeringii と中国の春蘭 Cymbidium forrestii
を比べてみたときに、在来の日本のランが概してにおいが少ないこともあり、実際に中国から蘭が輸入されていた可能性が高いとの指摘がなされています。)
また、同じ万葉集の中に、「山上憶良、秋の野の花を詠める歌二首」として
秋の野に咲きたる花を指折りてかき數ふれば七種の花
萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝がほの花
敦盛草 Cypripedium macranthum var. speciosum
布袋敦盛草 Cypripedium macranthum var. hoteiatsumorianum
礼文敦盛草 Cypripedium macranthum var. rebunense
黄花之敦盛草 Cypripedium guttatum var. yatabeanum
小敦盛草 Cypripedium debile
熊谷草 Cypripedium japonicum
海老根 Calanthe discolor
霧島海老根 Calanthe aristulifera
奄美海老根 Calanthe aristulifera var. amamiana
夏海老根 Calanthe reflexa
黄海老根 Calanthe sieboldii
猿面海老根 Calanthe tricarinata
尾長海老根 Calanthe musuca
匂い海老根=大霧島海老根 Calanthe izu-insularis
徳之島海老根、嘉津宇岳海老根=沖縄海老根 Calanthe discolor form. Kanashiroi
石斛 Dendrobium moniliforme
黄花之石斛 Dendrobium tosaense
沖縄石斛 Dendrobium okinawense
鶉のつくものと Goodyera
深山鶉 Goodyera schlechtendaliana
姫深山鶉 Goodyera repens
金銀草 Goodyera procera
鷺草 Habenaria radiata
大鷺草 Habenaria dentata
赤花鷺草 Habenaria rhodocheila
琉球鷺草 Habenaria longitentaculata
鈴虫のつくものと Liparis
鈴虫草 Liparis makinoana
富岳鈴虫 Liparis fujisanensis
蜘蛛散草 Liparis kumokiri
似我蜂草 Liparis krameri
朱鷺草 Poggonia japonica
山朱鷺草 Poggonia minor
大輪朱鷺草 Pleione formosana
黄花朱鷺草 Pleione forrestii
千鳥がつくもの
岩千鳥 Amitostigma keiskei
小阿仁千鳥 Amitostigma kinoshitae
沖縄千鳥 Amitostigma lepidum
青千鳥 Coeloglossum viride var. bracteatum
延根千鳥 Gymnadenia camtschatica
蝦夷千鳥=白山千鳥 Orchis aristata
雛千鳥 Orchis chidori
女蜂千鳥 Orchis joo-iokiana
水千鳥 Platanthera hologlottis
群千鳥 Stenoglottis Hybrid
蜻蛉のつくもの
零余子蜻蛉 Habenaria flagellifera
水蜻蛉 Habenaria sagittifera
大葉之蜻蛉草 Platanthera minor
小葉之蜻蛉草 Platanthera tipuloides var. nipponica
園原蜻蛉 Platanthera sonoharai
奄美蜻蛉 Platanthera amamiana
蜻蛉草 Tulotis ussuriensis
ほくろのつくもの
葵ぼくろ Nervila aragoana
一つぼくろ Tipularia japonica
矢柄のつくもの
枝打矢柄 Eulophia graminea
鬼之矢柄 Gastrodia elata
その他、
深山文字摺 Gymnadenia cucullata
零余子草 Herminium lanceum var. longicrure
捩花 Spiranthes sinensis var. amoena
などなど(順不同)
オリヅルラン(折鶴蘭)Chlorophytum comosum(ユリ科)
キミガヨラン(君が代蘭)またはユッカラン Yucca
recurvifolia(ユリ科)
リュウゼツラン(龍舌蘭) Agave americana(ユリ科)
スズラン(鈴蘭)
Convallaria majalis(ユリ科)
クンシラン(君子蘭) Clivia miniata(ヒガンバナ科)
シシンラン Lysionotus pauciflora(イワタバコ科)
シダ植物では、
マツバラン(松葉蘭) Psilotum nudum(マツバラン科)
イヌナンカクラン Tmesipteris(イヌナンカクラン科)
クリハラン(栗葉蘭)Neocheiropteris ensata(ウラボシ科)
コブラン Ophioglossum pendulum (ハナヤスリ科)
シシラン(獅子蘭)Vittaria fudzinoi(シシラン科)
倭名類聚鈔(931頃)では「木蘭、一名林蘭、和名毛久良邇」とあります。
また、貝原益軒の花譜(1698)では玉蘭と書いてハクモクレンと読ませています。
現在、
山玉蘭 Magnolia delavayi 、
夜香木蘭(トキワレンゲ) Magnolia coco
= Magnolia pumila
などという中国原産のモクレンが日本市場にでています。
カトレヤの名前の由来
五大属の名前の由来
カトレヤ類の主たる原種属名の由来